「一神教と多神教」(10/30)講演要旨
今週土曜日に予定されている21世紀COEプログラム公開講演会「一神教と多神教――新たな文明の対話を目指して」の講演要旨を、特別に「KOHARA BLOG」読者の方々にお知らせいたします。これは当日配布の資料に掲載されるものです。
「講演要旨」ですから、当然、講演の内容ができあがっているのだろう、と思うかもしれませんが、少なくとも、わたしに関しては、かなり怪しいです。(^_^;) どのあたりにポイントを持ってくるべきか、模索中・・・
多数の方々のご来場をお待ちしています。
◎「一神教と多神教―グローバル経済の謎」
中沢新一(中央大学総合政策学部教授)
「一神教」も「多神教」も、近代につくられた概念にすぎない。それはおおいに杜撰な概念で、それぞれの宗教の実態には正確に対応していない。絶対的な「一神教」も絶対的な「多神教」も、「トーテミズム」や「アニミズム」と同じように、実在しないのである。「多神教」と呼ばれている宗教的体系にはかならずや「一神教」の要素が含まれているし、純粋な「一神教」と呼ばれるユダヤ教やイスラム教の内部には、隠れた「多神教」の構造が潜伏しており、それによってあらゆる持続的宗教は人類の心の構造と調和してきたのであった。しかし、キリスト教のおこなった「一神教」の内部への「多神教」の組み込みは、まったくユニークなものであった。キリスト教は他の「アブラハムの宗教」には見られないやり方で、「多神教」構造をシステマティックな三位一体構造に組み込むことによって、古い「多神教」を没落解体させることができたのである。その意味では、「アブラハムの宗教」のなかでは、ただキリスト教のみが、古いタイプの「多神教」を滅ぼすことができたのだとも言える。
それゆえいわゆる「一神教」と「多神教」との対立という構図は、宗教の表層的理解のレベルでのみ機能する一種の「ねつ造された概念」の類にすぎないとも言えるが、その思考構造が経済活動の領域で作動を開始するや、そこには表層的「一神教」の思考構造をもつ、西欧型資本主義の経済システムが発達する可能性が開かれる。その意味では、資本主義とキリスト教的「一神教」(表層における)は、同型の構造を持つことになる。マルクスの語ったこととは反対に、経済とは宗教の別形態にほかならない。われわれは思考を逆転させ、あらゆる人間的諸活動を貫く新しい思考形態を開いていくことができなければならない。この講演では、そのような「来るべき思考」のための輪郭を描き出す作業をおこなってみたい。
◎「多神教からの一神教批判に応える――文明の相互理解の指標を求めて」
小原克博(同志社大学神学部教授)
近年、「一神教と多神教」という対比関係が日本の論壇で頻繁に取り上げられている。最初に、その一部を紹介しながら、こうした問題設定に共通して見られる傾向を批判的に検証したい。これらのメッセージの多くは、多神教の世界貢献といった華々しい表現とは裏腹に、非常に内向きで自己完結的な特徴を有している。一神教か多神教かという二者択一は、先を見通すことのできない世界に住むわれわれに、「わかりやすさ」という快感を与えるかもしれない。しかし、これは逃避的な快感ではないか。果たして、この日本的メッセージは世界に通用するのであろうか。むしろ、こうしたメッセージは誤解・偏見を助長しているのではないか。
宗教学や神学の視点から、一神教と多神教という概念を整理し、一神教と多神教を二元論的な排他関係に置くことがあまり意味を持たないこと、そして、一神教における神理解(唯一神信仰)に対置されるべきは、歴史的には「偶像崇拝」であったことを指摘する。同時に、偶像崇拝が現代世界において持っている新たな次元を示唆する。これは、テロなどの「直接的暴力」を生み出す温床としての「構造的暴力」と深い関わりがある。
また、多神教が日本やアジアにおいて、どのような役割を果たしてきたのかを、神道の例をあげて考察する。神道は、仏教とともに、日本の多神教を代表する存在として言及されるが、他宗教、異文化に対する神道の「寛容」の程度を確認したい。
最後に、現代世界の錯綜する問題を洞察する視点として「一神教と多神教」という問題設定があまり有効でないとすれば、何が見るべき思考軸であるのかを考える。個別宗教・国家の次元で考えれば、それは穏健派(リベラル派)と急進派(原理主義者)との戦い、あるいは、多様性の容認か、一つの強固な価値か、という価値観(世界観)の争いに見ることができる。また文明論的な視点から見るなら、オリエンタリズムとオクシデンタリズムが生み出すイメージのすれ違い、一方向からのイメージの氾濫・増殖の中に問題を指摘することができるだろう。